夢を引き寄せる魔法は「信じる」ことから始まります。

人は誰でも、夢を実現させて幸せになるために、生まれてきているのです。

幸せとは

幸せとは

「幸せ」の概念

「幸せ」とは、良い大学に入って、良い会社に就職して、出世して、
お金を貯めて、良い人と結婚をして、仲良く暮らすこと…

ずっと小さい頃から、そんな風に生きることが「幸せ」なんだ…
と、親に言い聞かされながら生きてきました。

考えてみれば、私が小学校時代に抱いた夢である「銀行員」は、
その「幸せ」な生き方の線上にあったのです。

そのために、良い大学を目指して2浪もしました。
そして、一部上場企業の都市銀行に就職もしました。
そして、良い人に巡り会えて結婚もしました。

ところが、出世を目指して頑張っていたら、必然的に、帰りが遅くなり、
休日も付き合いのゴルフで朝早く出かけることが多くなり、
いつの間にか、父親のいない「母子家庭」のような家族のあり方に
なってしまっていたのです。

「いくらしんどくても、仕事は仕事!家族のために、しっかりしなきゃ!」
…と、自分にカツを入れることも多くなっていきました。

いつしか、仕事は楽しいものではない…と思うようになり、
家族のために、辛抱することが仕事なんだ…と
自分に言い聞かせるようになっていきました。

そうして、家族のため…に頑張ってきたつもりだったのに、
疲れて帰ると、夫婦喧嘩になることが多くなって…
自分の気持ちとは裏腹に、
仕事と家庭生活とのバランスが取れなくなっていったのですが…

子供の頃の夢だった銀行員生活にピリオドを打った後になって、
ようやく、「幸せ」の概念が違っていたことに気がついたのです。

「幸せ」のキーワード

現在、「プロの占い師」を目指して、勉強を続けていますが、
占いのテクニックもさることながら、
本当の「幸せ」とは何かという追求も大切だと考えています。

「幸福になれるかどうかを大きく左右するものがたった一つだけある。
それは、ものの考え方だ。」
というのは、デール・カーネギーの言葉です。

人によってそれぞれ感じ方や考え方が異なるもの…
人それぞれに感じる「幸せ」感があっていい…

私は、自分の過去の経験を振り返ってみて、そんな風に考えるようになりました。
人それぞれ「幸せ」の感じ方は違うでしょうし、違っていて当たり前だと思いますが、
どうせなら、「幸せ」の感じ方の「範囲」が広い方がお得だとは思いませんか?

私自身が、「今この瞬間」に感じている「幸せ」のキーワードは、
「ワクワクする」「楽しい」「バランスが取れている」です。

「ワクワクする」ことなら、何だって「幸せ」なことなのです。
「楽しい」と感じるのは、「幸せ」の証しなのです。
そして、私は、「バランスの取れた」ものの考え方や行動が、
「幸せ」を感じることのできるセンスを創ると考えています。

私の考える「バランス」とは

「天の氣が恵みのはたらきをもって地に降りると、地の氣がそれを受け、万物を次々に生み出す。天の氣は陽であり男性原理として機能し、地の氣は陰であり女性原理として機能する。」
これは、金寄靖水(かなよりせいすい)さんの「風水学校」の中にあった言葉です。

これらは、中国の陰陽思想の考え方ですが、
「すべてのものは、外に拡がる働きの『陽』と、内に集める働きの『陰』という、2つの『氣』というエネルギーから生じている」と言われています。

「子供は、優しく可愛がり慈しむ『母親』(陰)と、厳しく教え時には突き放す『父親』(陽)という、陰陽のバランスが取れてはじめて
良い成長を遂げる」そうです。

ここでいう『良い成長』とは、
「バランスの取れた考え方ができる子に育つ」ことだと、私は思っています。
陰陽のバランスが取れていないと、
「すぐにキレたり、内に閉じこもってしまう子供になりかねない」と、
この本には書かれていました。

この陰陽のバランスが取れたところに、望むべき「幸せ」があるのではないか…
私がかつて感じていた「自分の気持ちとは裏腹に、
仕事と家庭生活とのバランスが取れなくなっていった」時の気持ちが、甦ってきました。

あの時の自分はどうすべきだったのか…
嫌な記憶ですが、できるだけ克明に思い出して、
その時の「思い」をしっかり受け止めてみようと思いました。

何かきっと「幸せ」のヒントが隠されているような気がします。

「幸せ」を感じることのできる「センス」とは

ガリー・バフォンは「『人生の残りの時間』の思考法」の中で、
「幸福の本質は、少し休息し、今という瞬間が与えてくれる贈り物を
味わってみることにある。幸福は、日常の一瞬一瞬に存在する。」
と書いています。

日常の一瞬一瞬に存在する「今という瞬間」が与えてくれるもの…
それは、「生きている実感」なのかもしれません。
その日常の一瞬一瞬に「幸せ」はたくさんある…それに気づく感覚が、
ここで言いたかった「センス」です。

日常の一瞬一瞬に存在する「幸せ」に気づくことができれば、毎日がワクワクして、楽しくて、たまらなくなりませんか?(笑)

「利己的な目的」の上にある「幸せ」とは

「人生の分岐点」に立たされた人が、自分が信じた道に向かって「行動」を開始する…
その先には、必ず「幸せ」が待ち受けていると、私は信じていますが…

さて、その「幸せ」が、そもそも「利己的な目的」の上にあった場合、
その人は本当に「幸せ」になれるのでしょうか?

信念の力とは」のページでも触れましたが、
「本当のパワー」は、体が喜ぶことに発揮されるようですので、
その人が心底「利己的な目的」で「幸せ」を感じられる人であれば、
それはそれで結構なことなのでしょうが、
何か釈然としないものが、私には残ります。

「本当のパワー」とは、悟り、喜び、愛、受容、意欲、勇気など、
自分をより良い理解や健康、幸せに導いてくれるもの…です。
まさにこれが、「幸せ」になるための「土台」だと思います。

それに対して、「利己的な目的」とは、
ホーキンズ博士の言う「フォース」を土台にした、
プライド、怒り、欲望などに端を発するものであり、
現代のような物質中心の社会においては、
戦争や相場操作などの多くの対立や混乱を生み出すものだと考えられます。

物質中心の価値観は、物を所有することで「幸せ」を感じます。
世の中の大多数の人はそうでしょう。
今の世の中が、それを推奨していますし、物を所有する喜びがあればこそ、
経済活動が活発になっているのですから、それを否定することはできません。

ですが、その「利己的な目的」の上には、争いが絶えないという現実があります。
それは何故なのでしょう?
そういう人たちは、
他の人たちの立場や価値観には無頓着だからなのではないでしょうか。
人間の命でさえ、粗末に扱うような人たちに、本当の「幸せ」は訪れないはずです。

エクナット・イーシュワランは「スローライフでいこう」の中で、
同じようなことを言っています。

「自分の幸せを追求していると、より自己中心的になり、より惨めになる」と。

自分の幸せを追求する「利己的な目的」の下には、本当の「幸せ」は存在しないということです。
            (エクナット・イーシュワランとは…人物紹介

自分を大切に思う気持ち

早稲田大学名誉教授の加藤諦三さんは、「人生の悲劇は『よい子』に始まる」という本の中で、
「『自分の価値』に自信のない人は、幸せになることより『幸せに見られる』ことが重要になる」と言っています。
                 (加藤諦三さんとは…人物紹介

ここでいう「自分の価値」とは何でしょう?
誇りやプライドのことでしょうか?
それとも、地位や名誉のことを言っているのでしょうか?
私は、「自分を大切に思う気持ち」だと考えています。

それでは、「自分を大切に思う気持ち」に自信がないと、
幸せになることより、幸せに見られることが重要になるんでしょうか?

「自分の価値」に自信のない人の「自分」とは、「他人の目に映る自分」のことであり、
目の前の自分のことではないということです。
他人の目に幸せなように映ってこそ「幸せ」を感じるということなのでしょうか。
それでも、「幸せ」を感じられるのであればいいのですが…
そんな他力本願な「自分」など、心無い人たちの「たった一言の失言」で、
木端微塵に崩れてしまいそうですね。

そんな不安定なところに、本当の「幸せ」が存在するとは
私には思えません。

「与える」こと

今までお話した、私が考える「幸せ」の条件を整理してみますと、

  1. 「ワクワクする」「楽しい」「バランスが取れている」こと
  2. 「幸せ」に気づくセンスが必要なもの
  3. 「本当のパワー」という「土台」があること
  4. 「利己的な目的」の上には存在しないこと
  5. 「自分の価値」にも結びつくもの

でした。


それ以外の条件としては、
オグ・マンディーノが、その著書「この世で一番の贈り物」で、
「与える」ことが「幸せ」の絶対的条件だと言っています。

「持つことや獲得することによっては幸福になれない。
『与える』ことによってのみ人は幸福になれる」と。
             (オグ・マンディーノとは…人物紹介

ここで、「与える」とは何を指すのかといいますと、
「私たちが他人に与えることのできる一番の贈り物は、金銀やダイヤモンドなどではなく、『自分自身』だ」ということです。

そして、『自分自身』を与えるとは…
彼は、
ボランティアで、自分を顧みずに他人を助けることにいそしんでいる人のことを指しているようです。

「そういう人たちは『エンドルフィン』と呼ばれる苦痛を和らげる化学物資を
体から放出している」らしいと長寿の研究にあたっている科学者たちの推測している
ことにも言及していました。

『エンドルフィン』というのは、1975年に初めて発見された脳内伝達物質ですが、
その後の研究により、内在性鎮痛系にかかわり、
また多幸感をもたらすと考えられるようになってきたそうです。

マラソンなどで長時間走り続けると気分が高揚してくる作用「ランナーズハイ」は、
エンドルフィンの分泌によるものとの説があり、二人以上で走ると効果が高いそうです。
また、性行為をすると分泌される「β-エンドルフィン」という物質に
鎮痛作用があるということもわかってきました。
さらに「社会的安心感」にも関与していることがわかってきたそうです。

これらのことが何を意味しているかというと、
「自分自身」を「与える」ことが、「体が喜んでいる」ことだということです。

何だか、体にも「感情」があり、いつも「喜び」を求めているような気がしてきました。

「ワクワクする」「楽しい」気持ちで、他人を助けるボランティアの人たちは、
本当の「幸せ」を感じておられる人たちなのでしょうね。

他にも「与える」ことの大切さに触れている本がありました。

「こほりくにを」さんの「天へのかけはし」では、
「母親と幼子の間のよろこびの共感と交換が幸せというものの元々の姿ではないだろうか。」
と、母の子に対する愛情の中に、本当の「幸せ」を見出しています。
             (こほりくにをさんとは…人物紹介
親が子に対して与えているのは、見返りを求めない「無償の愛」です。
その中にこそ、本当の「幸せ」がある…
私はそう確信しています。

家族の中の「幸せ」

私には、大学生と高校生の2人の息子がいます。
FrontPageの写真で私の隣に写っているのは、小学校4年生当時の次男です。)
彼らがまだ幼かった頃、彼らをあちこちの遊園地やテーマパークに連れて行って
遊ばせてあげることが、当時の私の「生きがい」でした。

その時は、家内にお弁当を作ってもらって、芝生の上にビニールシートを敷いて、
4人で輪になって食べるのが、我が家の「幸せ」であり、
私の「生きがい」だと信じていたのです。

でも、彼らが成長して大きくなってしまうと、もう遊園地にもあまり行きたがらないし、
行くときは「友達と行く方が楽しい」と言って、一人で出かけていきます。

淋しくないと言ったらウソになるかもしれませんが…
今は、もっぱら家内と2人で出かけることが増えました。
考えてみれば、独身時代は、出会って早々に結婚することを決めていたので、
デートの回数は、それほど多くはなかったと、今更ながら申し訳なく思えてきて…
家内の買い物に、リュックサック持参で付き合って「荷物持ち」をやっています。

考えてみれば、その時々の時代に合った、家族の「幸せ」のあり方があるのかもしれませんね。

自分自身の成長の実感

柴門ふみさんは、その著書「幸福論」の中で、
「何か一つでも今日は昨日より上達した、成長したと感じることが幸福である」と言っておられます。
                   (柴門ふみさんとは…人物紹介

彼女は漫画家なので、「好きなマンガを細々と書き続けながら、家族と楽しく暮らすことが一番の幸せ」だそうです。

私自身も、家族によって支えられ、「ここ」まで成長してこれたことを実感しています。
1991年に結婚して以来、今年(2013年)で22年目。
本当にいろんなことがありましたが、
家族のおかげで「ここ」までこれたことに感謝しています。

運命学でいう「幸せ」の概念とは     

源真理さんの「姓名の秘密」で、
「運命学で考える「幸せ」とは、どちらかというと、保守的で、まずは
『円満で過不足のない安定した暮らし』を手に入れられればよしと考える。」
                    (源真理さんとは…人物紹介

これが、運命学でいうところの「幸せ」の概念です。

まぁ、何はともあれ、家族みんなで仲良く暮らしていけることが、
「幸せ」なことと言えるのではないでしょうか。
              

本当の「幸せ」を得るには

「幸せは追い求めるものではありません。苦難の末につかみ取るものでもありません。
自分が真から求める生き方、思う人生のあり方を、
心の奥底の潜在意識に届くように強く願う。
それだけで人は誰でも必ず幸せになります。」

とは、ジョセフ・マーフィーが「人類史上最大の発見」の中で言っていることです。
「潜在意識」が認識したものが、力を与えてくれる…
その「潜在意識」に「幸せ」を認識してもらうことが大切なポイントとなりそうですね。

彼はまた、
「幸福もまた一つの習慣です。毎日自分が幸福であると思い続ける、
これが幸福を習慣化する最も確かな方法です。」
とも言っています。

「習慣」として「幸せ」を認識できたら、素晴らしいことでしょうね。

「自分のうそや間違いに『気づき』、それを正す一歩が踏み出せるとしたら、
それがあなたの幸せの第一歩です」というのは、「青森の神様」木村藤子さんです。
(出典:「気づきの幸せ」)
                  (木村藤子さんとは…人物紹介

この人は「気づき」の大切さを説いています。

「幸せというものは、「今自分が置かれている日常そのもの」です。
何も起きないことが幸せの絶対的本質です。」
というのは、小林正観さんです。(出典:「100%幸せな1%の人々」)
                  (小林正観さんとは…人物紹介

「何も起きないことが幸せの絶対的本質」だというのは、
何も起きないことが当たり前だと思うような気持ちを戒めておられるのかもしれません。
何も起きないことは「有難い」ことなのです。

ふと思ったのですが、
「幸せ」を感じられるのは、「幸せではない」ことも経験して、それとの比較においてこそ感じるものではないか…

というのも、いつも「幸せ」なことばかりに囲まれている人にとって、
それを「幸せ」と感じるアンテナがないように思えるからです。

「苦しくつらい日々があるからこそ、やがて来る幸福のひとときが私たちを歓喜の叫びにかきたてる。」(出典:町沢静夫「若者の『心の病』がわかる本」)

「死を知らなければ生きることの意味がわからないように、苦労を知らなければありがたみもわからない。」
(出典:斉藤茂太「ちょっとして心遣いの上手い親、下手な親」)


私たちは、いつも、「自分自身の今と過去との比較」や「他人との比較」においてこそ、
「幸せ」を感じられるように「創られている」のかもしれませんね。

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