夢を引き寄せる魔法は「信じる」ことから始まります。

人は誰でも、夢を実現させて幸せになるために、生まれてきているのです。

プロフィール

はじめまして!

シャムロック顕至と申します。
1958年9月27日生まれの男性です。
画像の説明

2014年4月4日付で「プロの占い師」になりました。
「プロの占い師」になることは、二十歳の学生時代からの夢でした。
二十歳の時に、タロットカードに出会い、
「プロの占い師」になる夢を持ちました。

今までに数多くの占術の勉強をしてきたのですが、
私が一番なじみやすかったのが、タロットと西洋占星術でした。

2006年に私の師匠である「ミセス・カーシャ」と出会い、
師事してきました。
「シャムロック」の名前も師匠に付けていただきました。
「シャムロック」とは、アイルランドの国花で、
「朝露のシャムロックには妖精の誘惑に惑わされない強さがある」と言われているそうです。
物質至上主義の世の中の「常識」に立ち向かい、
「夢を引き寄せるコンシェルジュ」として、
一人でも多くの方の夢を実現させるお手伝いをしていきたいと考えています。


人生には目には見えない大きな「壁」がある

私がなぜ「プロの占い師」にあこがれるようになったのかと申しますと、
大学受験に2度失敗して、
人生には、目には見えない大きな「壁」があることを
痛切に感じたことがきっかけでした。

大学受験に2度失敗

私は、奈良の吉野の山奥で生まれ育ちました。
今は合併して五條市となっていますが、
私が子供の頃は、西吉野村 という人口5000人ほどの村でした。

村には、本屋も無く、ゲームセンターも無く、映画館も無く…
娯楽の類といえば、山や川でのキャンプくらい…
そんな自然だけが取り柄の辺鄙な村でした。

そんな村で生まれ育った私は、
大学受験の大変さを知るすべもなく…

高校3年生の現役受験の時は、
学校の勉強だけで大学に行けるものだとばかり思い込んでいて、
何の疑問も持たないまま大学受験に挑み、失敗しました。

それから、1977年3月に高校を卒業し、
大阪市内の予備校に通うため、都会のど真ん中で、
下宿生活を始めました。

予備校1年目の時は、田舎者丸出しで、
テレビ局の公開録画番組に頻繁に見学に行ったり、
下宿屋の近所にあった映画館に行ったりして、

もっぱら「社会勉強」が中心になってしまい、
結局、大学受験に再び失敗してしまいました。

予備校2年目になってようやく、
崖っぷちに立たされたような、切羽詰まったギリギリの思いを持ち、
予備校の授業を中心に予習・復習をしっかりやり切ったことで、
ようやく「3年目の春」を迎えることができたのです。

その時、人生には、目には見えない大きな「壁」があると痛切に感じ、
それを事前に知ることができる方法はなかったのだろうか…と、
そんな疑問を抱いたのでした。

タロットカードとの出会い

画像の説明
ようやく合格できた大学は、
現役・1浪時代には「高嶺の花」だと思っていた大学…
神戸大学でした。

神戸大学法学部に合格したのです。
1979年3月のことです。

3年目にして、ようやく夢が実現した…
そんな夢のような大学に通うことができるようになった…
その「達成感」には、
努力した者だけが味わえる、何とも言えない高揚感がありました。

さらにそこには、現役・1浪時代に受験を甘く見過ぎていた反省と、
目標を高く持って、コツコツ努力を積み重ねていくことの大切さを
思い知ったという貴重な経験がありました。

そうして、ようやく、目には見えなかった大きな「壁」の一つを乗り越えられたのです…

でも…
そもそも、そんなに苦労しないで、
その達成感を味わうことはできなかったのだろうか…
何となくですが、そんな疑問が残りました。

きっと何か方法があるはず…
そんな思いを強く持つようになっていったのです。

そんな折、弟から、友人から譲り受けたというタロットカードを見せられ、
占いというものがあることを初めて知りました。

占いは「未来」を観るもの。
もし、今回の大学受験のように、
大変な苦労をすることが事前にわかっていたら…
もっと苦労を少なくできたんじゃないか…
そんな思いが頭をよぎりました。

占いは、太古の昔から存在する「先人の知恵」。
うまく使いこなせれば、きっと役に立つはず。
占いに未知の可能性を感じ、
それを活用しようと考えるようになるまで、
そう時間はかかりませんでした。

そうして、弟からそのタロットカードを譲り受けたことが、
占いの世界に入る始まりになったのです。

タロットカードの魅力

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弟から譲り受けたタロットカードは、
辛島宜夫さんの「タロット占いの秘密」という、
解説本とタロットカードがセットになった箱入りのものでした。

それぞれのカードには個別の意味があり、
それらを決められた配置で並べたときに出たカードによって
暗示する内容が違ってくる…というものです。

初めて占ったのは、自分のこと…
具体的にどんな内容だったかは覚えていませんが…
解説本を片手にしながら、
どんどんのめり込んでいきました。

「目に見えない存在」(サムシング・グレート)が、目の前にいて、
タロットカードを介して、未来の出来事を教えてくれている…
そんな気がしました。

他の人で、手始めに占ったのが、友人の恋愛運でした。
結果は「良好」と出たことを覚えています。
それから間もなくして、2人がカップルになっていましたから…

解説本片手にしながら占っても、すごく「当たる」ものだ…
当時はそんな印象を強く持ちました。

「占い」は「当たるもの」…
当時の私はそう思っていました。
そんな「占い」を利用しない手はない…
などと考え、徐々に占いの勉強を進めていくようになりました。

法律相談部の部長時代の思い出

神戸大学法学部に入学した当時の私は、
当初は弁護士を目指そうと考えていました。

そして、法律相談部 という、学んだ法律の知識を活用して、
無料で、一般市民の方たちの法律上の悩みの相談を受ける部活動に参加したのです。

新聞に広告を載せ、毎週土曜日の午後2時から4時まで、神戸市営の施設の部屋を借りて活動していました。

3回生の時、部長になり、ますます部活動に力を入れていた頃、
とある女性の悩みの相談を受けた事が強く印象に残っています。

その女性は、当時18歳で、既に結婚をされておられたのですが、
相談内容は、「離婚」についてでした。

17歳の時に、親同士が決めた相手と結婚させられたということでした。
結婚した当時は、何とも思わなかったそうですが、その後…
一緒にいるだけで、「生理的に」嫌になってきて…
1年間我慢してきたが、とうとう耐え切れなくなってしまった…と。
それで、何か別れる方法はないか…という相談でした。

特に暴力をふるうわけでも、浮気をするわけでもないのに…
ただ一緒にいるだけで嫌だと思う…

18歳にして、そんな悩みを抱えた女性でした。

…ですが、「一緒にいるだけで嫌だ」という、ただそれだけでは、
現行の法律では、離婚できないのです。
法律の上では、「生理的に」嫌になった相手と別れる方法はただ一つ…
「相手の同意」が必要なのです。

その女性の話では、それは不可能だということでした。

「これからどうしたらいいか」
部員3人で、その話を聴き、
部の顧問の大学教授も同席してもらって検討した結果、
その時出した回答は「どうしても別れたいのならば、自分から離婚原因を作ること」でした。

民法770条に、裁判上で認められている離婚原因の一つとして、
「その他婚姻を継続し難い重大な事由」があります。

当時の私たちは、その条文から、
夫婦生活の事実上の破綻を意味する「別居」を示唆したのです。

その回答で、
その女性の「これからどうしたらいいか」という切実な思いに
応えることができたのかどうか…
その女性は、何とも言いようのない不安な表情をされていました。

法律は、社会生活上の規制であり、守るべきルールなのですが、
「法律ではこうなっている」と言っても、何の解決にもならない…
というジレンマを感じてしまいました。
法律上では認められても、心理的にはなかなか納得のいくようなものではない…のです。

そもそも、心理的な問題に関しては、法律では根本的な解決にならない…
と、その時を境に考えるようになっていきました。

そうです。
こんな時は「法律より占いの方が役に立つのではないか」と
真剣に考え始めたというわけです。

それ以来、弁護士になる夢はあっさり捨て去りました。
資格取得の難易度がかなり高く、
中途半端な勉強ではとても太刀打ちできないことがわかり、
「2浪して年齢的にも後がない自分にとっては不利」と考えたのが、
メインの理由ではありましたが…。

こうして、占いに真剣に向き合って、
将来「プロの占い師」になるという夢を持った次第です。

人生の道しるべ

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「これからどうしたらいいか」
誰でも、人生の分岐点に差し掛かった時には、そんな風に悩むものです。
そんな時に、進むべき進路を示してくれたり、背中を押してくれる…
占いにはそんな役割がある…
占いによって「壁に突き当たる時期や内容」を事前に知ることができ、
苦労しないで、その壁を乗り越えられる…

当時の私は、純粋に、ただそう信じていました。

初めて通る道に迷わないようにするための「道しるべ」があるように、
人生に迷わないようにするための「人生の道しるべ」があるはず。

それが、占いであり、
占いは、人々に苦労させずに幸せになってもらうための道具なのだと…
信じるようになったのです。

二十歳の時に始めた占い

二十歳の時から占いを勉強し始め、大学の学祭「六甲祭」で模擬店を出し、
1回100円でタロット占いをやっていました。
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解説書に載っているカードの意味を単純に当てはめて占ったことが、
結構当たっていると評判を呼んで、
2日間で、延べ100人のお客さんが来てくださいました。

当時はタロット・クロスなどの道具もなく
下宿から持ち出したコタツ板を裏返して、長机の上に置き、
そこにタロットカードを広げていました。

お客さんは、主に中学生から大学生の女性の方が中心で、
恋愛運を観てほしいという人が圧倒的に多かったのを覚えています。

当時の私は、パンチパーマをかけていたのですが、
2か月も経って、アフロヘアのような髪型になっていて、
多少、いかがわしい雰囲気もあったかもしれませんが…
それでも、延100人の方に来ていただいたのが、うれしかったです。

中には、1人で2~3件の占いを希望される方もいらっしゃって、
学祭の模擬店としては繁盛していた方だったと思います。

その時、占い師としての職業に、
少なからず「手応え」のようなものを感じたのは確かでした。

西洋占星術も、当時から勉強を始めたのですが…
当時はパソコンがなかったために、
星の位置を手計算で求めるという手間がかかってしまい、
とても実用的な使い方ができず、
なかなか思うように勉強が進みませんでした。

今は、パソコンで瞬時に星の位置を割り出せるので、
ありがたいと思っています。

「プロの占い師」に寄せる思い

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世の中には、壁に突き当たったまま、
身動きが取れずに苦しみもがいている人がたくさんいる…

占いは「先人の知恵」。
きっと役に立つ道具になるはず…
占いを使って、困っている人たちの役に立ちたい…
世の中に貢献したい…

そんな思いから、
タロット占いの勉強を始め、次に西洋占星術、姓名判断と
いろんな本を読んで独学で勉強し、
知識が深まっていくうちに、
ますます「プロの占い師」にあこがれるようになっていきました。

自分の人生を自分で扱えない人は占い師に向かない。
自分が地に足をつけて幸せでない限り、人の幸せなんか説けない。
(出典:中谷彰宏「占いで運命を変えることができる」)
                    (中谷彰宏さんとは…人物紹介

私の目指す「プロの占い師」は、
人々に、できるだけ背負う苦労を少なくして、
幸せになってもらうこと。

だから、この本の通り、
まずは、自分の人生をしっかり自分で扱い、
自分がいつも幸せな気持ちでいられるようにしたいと思っています。

ホロスコープをどのように解釈するかは、
ホロスコープの「読み人」の教養、資質、人間性などが強く反映する。
(出典:ルネ・ヴァン・ダール・ワタナベ「占星術から天文心理学へ」)
            (ルネ・ヴァン・ダール・ワタナベ先生とは…人物紹介

私の目指す「プロの占い師」は、
教養、資質、人間性の他、経験に裏付けされた「知恵」を持った人物です。
その「知恵」で、困っている人の力になりたいと思っています。

都市銀行に就職

「プロの占い師」になりたいという思いは
日に日に強まっていきましたが、

ただ、2浪して、やっと大学に入った手前、
大学卒業後に、すぐに「プロの占い師」になることはできませんでした。

「プロの占い師」とは、収入の安定した職業ではない…と思ったので、
貧しいながらも学費を工面してくれた両親に申し訳なくて…
それで「プロの占い師」になりたいという思いを封印して…
都市銀行に就職することにしたのです。

銀行への就職は、小学校時代の「夢」でした。
父の仕事が、自営業だったため、
よく南都銀行の外交の人が集金に回って来ていたのを見て、
子供心に「かっこいい」と思えたのが「夢」の始まりでした。

そして、その「夢」が実現したのが、1983年4月でした。
当時の三和銀行に入行したのです。
入行店は岸和田支店でした。
そして、預金業務から始まり、融資業務に携わるようになっていきました。

融資業務では、住宅金融公庫や一般ローンの受付などを中心に担当していました。
その当時は、お金に困ったお客様の「悩み」の相談を日常的に伺っていたものでしたが…
銀行というところは、
「お金の無い人にはお金を貸さない」ところ…
「雨の日には傘を貸さず、晴れた日にだけ傘を貸す」仕事だと揶揄されたものです。

当時の私は、困った人たちの何の力にもなってあげられない不甲斐なさを感じたものです。

そこには、小学校時代に「かっこいい」と感じた「銀行員」の姿はありませんでした…

そうして、そんな不甲斐なさを引きずりながらも、
日に日に忙しくなっていく仕事に振り回されていきましたので、
とても、占いの勉強どころではなくなり、
いつしか占いの世界から遠ざかっていきました。

偶に同僚との会話の中で占いの話が出たときに、
「将来はプロの占い師になるんだ」と話したところ、
ただただ「何バカげたことを言っているんだ」と鼻であしらわれ、
占い師に対する世間の目は、自分の思いとはこうもかけ離れているものなのか…
と、情けなく思ったものでした。

それでも銀行員生活を長年耐え忍んでこれたのは、
銀行業務を通じて得た知識と経験が、いつかきっと
「プロの占い師」につながる「知恵」になるという思いを
持っていたからでした。

自分の占い通りに結婚できたこと

20歳の頃、西洋占星術の勉強の手始めに、
自分自身の「結婚運」を占ってみたことがありました。

試しに占ったとはいえ、
「自分の人生では33歳で一番幸せな結婚ができる」
という、その時の「自分なりの観立て」を信じて、
それから13年間待ち続け、
何の疑問も抱かずに33歳で結婚したのです。

この時は、本当に純粋に占いの結果を信じていたために、
33歳で結婚する準備のために、
その前年の32歳の時から「行動」を開始したのです。
1990年10月のことです。

まず、手始めに、式場の予約。
順番が違うんじゃないかと指摘をいただきそうですが…
当時の私には、まず式場の手配だったわけです。

その当時、不思議なことに、実にタイミング良く、仕事の関係で、
大阪城公園にある豊国神社さんを担当させていただくことになりました。

そして、親しくなった宮司さんにお願いして、
式場の予約を済ませることができたのです。
挙式日は1991年11月3日にしました。

何とラッキーなことでした。
その宮司さんから、当然のように新婦の名前を聞かれたのですが、
しばらくの間(相手が見つかるまで)
空欄にしておいていただくことで了解をいただけたのです。

その宮司さんは、いろいろとお気を遣っていただいて、
披露宴会場と、新婚初夜に泊まるホテルの手配までしてくださいました。
神社の提携先なので簡単にできるそうでしたが、
とてもありがたかったです。

それで、日取りも決まり、後は相手を探すだけ…
知らない人が聞いたら、頭がおかしいんじゃないかと思われそうですが、
当時の私は真剣でした。

次に行動したのは、年内に必ず「相手を決める」という決意の下、
クリスマスイブのディナーショーのチケットを購入したことです。

どういうわけか、野口五郎さんのチケットしか残っていないと言われ、
それでも、1枚32,000円もしたのですが…
清水の舞台から飛び降りるような心境で、64,000円を支払い、
2枚のチケットを購入しました。

さて、後は、いよいよ相手を探すだけ…
…と、次に取った行動は、

当時の取引先の会社を訪問し、経理の女性に声かけをして、
「誰かいい人がいたら紹介してください。」と…
お願いして回ったのです。

何の策も講じない、真正面から突っ込んでいくような行動パターンでしたが、

それから間もなくして、
ひとりの女性を紹介していただくことができました。

その女性としばらくデートを重ねた、ある日、
クリスマスディナーショーのお誘いをしたところ、
何と、その女性は、野口五郎さんの大ファンだったのです。

ウソのようなオチがついて、後はとんとん拍子に話が進んで、
当初に決めた日取り1991年11月3日、3連休の中日で大安吉日の日曜日に、
めでたく式を挙げることができたという次第です。

2023年11月現在で、結婚生活32周年を迎えた、今の女房が
その女性です。

占いが的中したと、当時の私は大喜びしたものですが…
さて、その件では、後日談があります。

占いと信念の力

ブログにも書いているのですが、
的中したのは、占いのおかげなのか、
それとも、
それを信じた「信念の力」のおかげなのか…

そんなことと関連していると言っていいのかどうか…
実は結婚後に、私の出生時刻が1時間も間違っていた
ことがわかったのです。

母が弟の出生時刻と勘違いしていたそうで…

そんなぁ~…と思いつつ、
正しい出生時刻で再度鑑定し直してみたら、
一番幸せな結婚の時期は34歳だったということがわかりました。

13年間待ち続けて、ようやく結婚した後で、
実は占いの結果が間違っていたなんて…

結婚できたのは、占いのおかげではなかったのか…
私は、それからしばらくの間「不合理な思い」に
捉われたのでした。

では、どうして、間違った出生時刻で占った時期であるにもかかわらず、
実際に結婚できたのでしょうか…

社会心理学の世界に「自己成就予言」というのがあります。
これは「自分が期待する事に沿うような行動を取ったために
期待通りの結果が出現する現象」だと、定義されています。

私は正に「占いを信じて、自分の期待通りに行動した」のは事実です。
私の場合は、占いが当たったと言えるのか、
それとも「自己成就予言」の類なのか…

ただひとつ言えることは、いずれにしろ、
行動する原動力が生まれてきたのは、
「信じる力=信念の力」があったからなのです。

悩みに悩んで…よくよく考えた末に、
13年間待ち続けた「思い」が信念となって、
結婚相手を引き寄せたんだという「悟り」に達しました。

その後、
「プロの占い師」になりたいという思いに変わりはないのですが、
占いそのものに、深くこだわる気持ちは薄れ、むしろ、
信念を大切にしようという思いを強く持つようになったという次第です。 

ちなみに、正しい出生時刻で鑑定し直して出た「34歳」の時には
待望の第一子(長男)が生まれました。


結果的にわかったことですが、
私にとって「人生で一番幸せな時期の出来事」とは、
結婚ではなく「長男の誕生」だったのでした。

プロの占い師の師匠との出会い

2005年8月20日母が亡くなりました。
母が亡くなって初めて、私はそれまで私自身の人生ではなく「母が私に期待する人生」を歩んできたことに気づきました。

この時銀行に入って既に22年が経過していました。
元々銀行に入ったのは両親を安心させるためだったので、
母の死をきっかけとして、私はぼちぼち自分の夢を目指して転職してもいいかと思い始めました。

ところが…です。
その時は結婚して14年目で、2人の子供が、この時まだ中学生と小学生で、何かとこれからお金がかかることが予想される中での転職は困難でした。

そんな時に、ネットで占いの師匠に出会ったのです。
2006年1月のことでした。
師匠との出会いにより、一時はあきらめかけていた「占い師の夢」を改めて強く持つようになりました。

そして20歳の時と同じ要領で「12年に1度の幸運期」を利用して、プロの占い師になることに決めたのです。
それが2016年10月1日です。
占った時から10年後のことでした。

その後、師匠からは、「シャムロック」の名前をいただきました。
「シャムロック」とは、アイルランドの国花で、
「朝露のシャムロックには妖精の誘惑に惑わされない強さがある」
という謂われがあるところから、
しっかりと根を張ったプロの占い師に育つようにと、
思いを込めて命名していただきました。

師匠は、東北大学卒業後に、単独でイギリスの大学に留学し、
ウィッチと呼ばれる「魔女」の家に下宿し、
大学に通う傍ら、魔女修行にも励んでいたそうです。

生い立ちのお話を詳しく伺っていくうちに、
不思議なご縁を感じたものです。

占いには前世での「縁」を観る方法もあり、
(ルネ・ヴァン・ダール・ワタナベ先生の「魂の伴侶 ソウルメイトの見つけ方」)

それで調べた結果、前世での師匠は、私の祖母だったと…

それで、いろいろ親切に教えていただけるのか…と
妙に納得したものでした。

そんな師匠からは、約半年間タロット占いを教えていただきました。
独学で勉強してきた西洋占星術についても、
いろいろとアドバイスをいただきました。

その後、師匠の会社(A&Lコーポレーション)で、約3年間、
「今月の運勢(西洋占星術)」のコーナーの執筆を担当させていただきました。

私の夢が実現したら、
師匠と一緒にイベントができたらいいなと思っています。

私より、15歳も年下の師匠ですので、
まだまだ将来性があるお人です。
現在は、いろんな占いサイトで活躍されておられる
ミセス・カーシャ先生がその人です。
             (ミセス・カーシャ先生とは…人物紹介

転機の訪れ

それは、ある日突然の知らせで「転機」が訪れてきました。
2009年の10月のことです。

「早期退職優遇制度による退職者の募集を試験的に1か月間だけ行う」
というものでしたが、迷うことなく、すかさず応募しました。
本店の決裁には、約2週間かかりましたが、
落ち着いて、自分の「転機」の訪れるのを待つことができました。

小学校時代の夢だった銀行員…でしたが、
2度の合併で名前も「体質」も変わり、段々愛着が薄れていっていましたので、
長年勤めた銀行に、何の未練もありませんでした。
それより、
やっと、学生時代の夢の実現のために「大きな一歩」を踏み出せたことで、
心はウキウキしていたのです。

退職日は、翌年の2010年3月31日でした。

夢の実現に向けた次のステップ

銀行退職後、2016年10月までの6年半の間に、
やっておくべきことが次々に頭に浮かんできました。

  • カウンセリングを学ぶこと
  • 座禅(瞑想)を学ぶこと
  • 占いの技術に更に磨きをかけること
  • 後は『流れ』に身を任せること

退職前に特別休暇をいただいて、早速「行動」を開始しました。

カウンセリングを学ぶこと

まずは、カウンセリングを学ぶことですが、
産業カウンセラー養成講座の申し込みをしました。

それが偶然にも、再就職の相談に訪れていた会社の担当者から、
たまたま受講申し込みの要領を伺い、
「申し込み締切後」に受け入れてもらえるという幸運にも恵まれて…
ラッキーでした。

受講期間は、2010年4月から10月までの7か月間。
資格試験は年1回だけ、毎年1月の実施でした。
具体的な目標が決まり、カウンセリングの勉強にも力が入りました。
試験勉強は、いろいろと苦労しましたが、
養成講座で知り合った友人の協力もあり、
何とか1回で資格試験に合格できました。

座禅(瞑想)を学ぶこと

次に、座禅の修行ですが、
ネットで調べて、四天王寺で毎週火曜日の朝に参禅会が開かれていると知り、
早速申し込みました。2010年2月2日のことです。

以来、2011年9月まで1年半通いました。
修行はまだまだ道半ばでしたが、
再就職した会社の勤務時間の変更に伴い、
断念せざるを得なくなったというわけです。

ただ、私は、ちょうど良い時期に「卒業」できたと考えています。
ひとつひとつの物事には、始めと終わりがあるものです。
ちょうど良い時期が来たと思えば、
それ以上執着しないで「手放す」ことが大切だと思っています。

占いの技術に更に磨きをかけること

3つ目の「占いの技術に更に磨きをかけること」については、
いろんな人のいろんな考え方に触れ、
自分なりの観方を開発しようと考え、
専ら、読書に励んでいます。

1992年8月から、読んだ本の感想やら、印象に残った文章を
システム手帳に書き出していくことを始めていたので、
2019年8月3日現在で、1,358頁で1,675冊分のストックができています。

将来夢見ている「プロの占い師」の仕事のひとつにセミナー講師を挙げていますが、
そのセミナーをする際の資料に使えるといいな…と
考えている次第です。

そのことも考えて、読んだ本の題名や著者名、その感想を書いたシステム手帳のページなどを、
パソコンで入力して索引を作っています。

後は『流れ』に身を任せること

最後に挙げた「後は『流れ』に身を任せること」は、
とにかく「時期が来た」と思ったら、
迷わず行動を「始める」か、もしくは「手放す」かを選択することです。

占いは「流れ」を観るものでもあります。
運気の「流れ」を観つつ、
「時期が来た」と思えば、すぐ動けるように備えておくこと。
当面はこのことを頭に置いて、活動していきたいと思っています。

2013年5月8日に、その『流れ』がやってきました。
「プロの占い師」になる時期を、2014年4月1日にしょうと思い立ったのです。
これには「みちひらきの大神様」のお導きがあったと思っています。

それは、猿田彦神社の神職の一言
「普通は、デビューしてから独立するものですよ。」
から始まりました。
2013年5月2日に初参拝してから一週間というもの、
何か悶々とする日々を過ごした後、「新たな思い」に目覚めたのです。

私にとっての「2016年10月1日」は、神職のお言葉をお借りするなら、「独立」の時…
その前に「デビュー」の時期があるのではないか…ということです。

2014年3月31日には、再就職していた会社を退職することになっている…
ならば、その翌日の、2014年4月1日には何らの制約も受けずに「デビュー」できるのではないか…
そう考えた時、私は「『流れ』が来た」と、直感しました。
そして、今こそ、その『流れ』に乗っていこうと…思い立った次第です。

更に、2013年7月11日になって、プロデビューの日を
2014年4月4日に変更しました。
師匠からアドバイスをいただき、誕生数が「6」となる日にしたというわけです。
これにより、シャムロック顕至は、
「人の役に立つことを喜びとする」姿勢を持つことになります。

名前から来る運命数「11/2」は、
「新たな癒し」を世界にもたらす存在になる使命を持つことになります。

こうして、「流れ」に身を任せていると、
自分がやるべきことがどんどん引き寄せられてきました。

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