夢を引き寄せる魔法は「信じる」ことから始まります。

人は誰でも、夢を実現させて幸せになるために、生まれてきているのです。

人生何事も経験

人生何事も経験

生まれてくる前の自分が、どんな「シナリオ」を描いていたのか…
占いで、その手がかりをつかみながら手探りでこれまでの人生を歩んできましたが…

過去を振り返ると、そこにはひと言では言い表せないような経験によって成長し続けてきた自分がいました。

数々の試練に悩み苦しみながらも、それらを乗り越え、今しっかりと地に足をつけて立っている自分がいます。

今この瞬間、生まれてくる前の自分が描いた「シナリオ」通りに成長できている…
という実感が生まれてきました。

人生何事も経験なのだ…
ということが今になってようやくわかってきた気がしています。

山奥で生まれ育った経験

生まれてくる前に自分が何を考えて、
わざわざ奈良の吉野の山奥に生まれるように仕向けたのか…
その意味を、その田舎を出て、
都会暮らしを始めたずっと後になるまで知ろうともしませんでしたが…
田舎で暮らした18年間の倍の年月を都会で過ごしてきてようやく、
その意味がわかってきたような気がしています。

山に囲まれた実家では、四季の移り変わりがすごく鮮明でした。
春になると、山は梅や桜でピンク色に染まり、
夏になると、山は緑で覆われ、
秋になると、山は色とりどりに変化し、
冬になると、山は白一色になる…

毎日繰り返される同じような日々の中で、
確実に変化していくものを意識できていたのです。
それを幼い頃にしっかり目に焼き付けられたことが、私の財産であることに、
今ようやく気がつきました。

心の中に浮かんでくる「原風景」は、田舎の風景です。
いつも優しく私を迎え入れてくれる、のどかな風景…
そんな田舎で生まれ育った経験は、何物にも替えがたい貴重な財産なのです。

大好きだった祖母の存在

私が田舎で暮らしたのは、高校を卒業するまでの18年間だけでした。
父は、自営業で車のパンク修理業を営み、
母は、食品や日用品を売る小売店を営み、
そして、祖母は、大衆食堂を一人で切り盛りしていました。

家族みんなが仕事で忙しい中、いつも祖母が優しくしてくれていましたので、
祖母の食堂で一緒にテレビを見る時間が1日の中で一番楽しい時間になっていきました。

しかし、その祖母とは血のつながりがないことを、
ずっと後になって知りました。
祖父の後妻として、私が生まれる前の年に来たそうです。

血のつながりがないのに、とても可愛がってもらえたのです。

そんな大好きな祖母について行って、よく近所の氏神さん詣でに出かけたのを覚えています。
信心深かった祖母が、いつも言っていたのは、
「神様は何でも望みを叶えてくださる。だからしっかりお祀りしていかないといけないよ」と…

そんな祖母の影響を受け、私は神様という「目に見えない存在」の力を
早くから意識するようになっていったのです。

近所の女の子に泣かされていた小学校時代

私の通っていた小学校は、
実家のすぐ上の山の中腹にありました。

私が6年生の時の全校児童は、わずか55人…
その中でも一番人数の多かった学年が私のいた6年生で、
男の子と女の子の割合はちょうど8人ずつの16人いました。
一番人数の少ない学年は7人くらいだったと思います。

のんびりした雰囲気で、毎日授業が終わると、みんなで鬼ごっこをしたり、縄跳びをしたり、ソフトボールをしたりして遊んでいました。

そんな中、近所の女の子に、よく仲間外れにされて「いじめられて」
泣かされていたことを思い出しました。
そんな時代もあったんだ…と、今では懐かしく思い出せています。

柔道で体を鍛え始めた中学時代

女の子にいじめられて泣かされるなんて…男の恥だとばかりに、
一念発起したのが、中学校に入学した直後の時でした。

当時のテレビ番組で流行っていた「柔道一直線」に感化されて、
柔道部に入部したのです。
とにかく体を鍛えて、いじめた女の子を見返してやるぞ…とばかりに、
小柄な体に鞭打って練習に励んだことを思い出します。

右腕を骨折したため左手で受験勉強をした中学3年生時代

そんな中で、受験期を迎えた中学3年生の時、
柔道の試合で右腕を骨折してしまいました。
よりにもよって、高校受験の勉強に力を入れるべき夏だったので、
当時はかなり焦っていたものでしたが…
右手が使えないなら左手で…と、
きれいに速く書くことはできないけれど、丁寧に書けば読めないことはない…
そんな気持ちで取り組んでいけたので、
我ながら、たくましい根性ができていたのかな…なんて感心したものでした。
柔道という武道を通して、体だけではなく精神も鍛えられていたと思います。

初恋の相手と「二人っきり冬山登山」の高校1年生時代

無事に高校に合格が決まり、奈良県立五條高等学校に入学することになりました。
当時の通学時間は約1時間かかりましたので、
隣町とはいえ、私にとっては「大都会」に通っていた気がしていました。
そんな中、同じクラスの私のすぐ前の席にいた女の子に、初恋をしました。
学校行事の冬山登山で、金剛山に登ったときの帰り道で、
二人っきりになったことがあったのです。

辺りは一面の雪景色で、足元にもかなり積もっていたので、
滑らないように気を遣いながら、
その女の子と手をつないで、ゆっくり下っていたら、
いつの間にか二人っきりになってしまっていました。

その時はホントにドキドキしましたが…
まだ恋をしているなんて考えてはいなかったのです。

高校3年生になった時に、初めて意識するようになり…
思い切って告白して、あっさりフラれてしまいましたが…
今では、ほろ苦いながらも良い思い出の一コマとなっています。

社会勉強にいそしんだ予備校1年目

プロローグにも書きましたが、田舎育ちの私には、大学受験の知識は皆目無く、
情報すら入ってこない環境の中にいましたので、
まるで、生まれてくる前の自分が確信を持って決めていたかのように、
すんなりと…大学受験に失敗しました。

そうして、高校卒業後に、予備校に通うべく、
大阪の上本町で下宿を始めたのです。
予備校は、そこからバスで10分ほどの夕陽丘予備校に通いました。

当時の下宿屋は、喫茶店と雀荘も経営していましたが、
部屋からは麻雀の音が全く聞こえてこない造りになっていたのが幸いでした。

そこで、田舎を離れて初めての一人暮らしを始めたのですが、
自炊をするのも初めてだったので、すべてが初体験でした。

外に出ると、歩いて行けるところに、映画館があり、
食堂もスーパーもあり、何でも揃っているのに驚いたものです。
ですが、田舎者の私には、なかなかなじめず目もチカチカするくらい、
大勢の人に圧倒されていたものです。

それが…徐々に都会の環境に慣れるにつれて、
あらゆるものに勉強そっちのけで興味を持っていきました。

当時の朝日放送の人気番組に「プロポーズ大作戦」という番組があり、
その公開録画の見学にたびたび出かけていくようになったのです。
一応は、応募の申し込みをして抽選で選ばれることになってはいたのですが、
何故かちょくちょく当選して、予備校の友人たちを連れて行きました。
そのうち、会場のどこに、ゲスト歌手が降りてきて歌うのか、
その場所を見定めて、早めに外で並んで、
その一番近くの席をゲットすることに生きがいさえ感じるようになっていきました。

でも…当時は、浪人して大学受験を目指していた身でしたので…
両親にはテレビは買ってもらえず、ラジオだけで過ごしていました。
なので…
会場で歌う歌手の横で手を振っている自分の姿を実際にテレビで見る
ことはありませんでした。

実際に映っていたことは、田舎の両親と二人の弟がうれしそうに教えてくれたものです。
ホントに…田舎者丸出しで…
そんなことばかりが印象に残った予備校1年目でした。

崖っぷちに立たされた予備校2年目

2浪になって、ようやく、崖っぷちに立たされたような、
切羽詰まったギリギリの思いを持ちました。
当時の思いは、それはもう強烈でした。

とにかく予備校の授業に必死になってついていこうと決意し、
予習・復習も徹底的にやり、
教室では一番前の中央の席が、私の指定席となり、
朝から晩まで予備校の中で過ごしました。

苦手だった数学を克服しようと、「高野山合宿」にも参加しました。
これは予備校の企画で、苦手科目の徹底克服と題して、
2週間の間、高野山の宿坊に泊まって、
毎日朝から晩まで数学だけを徹底的に勉強するというものでした。
その時はとにかく死にもの狂いで予備校の勉強にくらいついて…
それはもうただただ必死だったという記憶しか残っていません。

そうして…3度目の大学受験を迎えたのですが…
そんなタイミングで大きな受験制度改革の波に襲われました。
2浪して初めて「共通一次試験」を受けることになったのです。
現在のセンター試験の前身となる「共通一次試験」スタートの年だったのです。

初めての共通一次試験は、1月13日と14日の土日に実施されました。
その翌日が成人の日で、「田舎で成人式が行われる」
という案内が来ていたのを鮮明に覚えています。
ですが、2日間の試験を終えてクタクタになっていた上、
2浪の身の上で、おいそれとは成人式に出るわけにもいかず、
成人の日には、下宿で膝を抱えて寝ていたのです。
そんなことも、今となっては懐かしい思い出の一コマです。

さて、共通一次試験の成績ですが、
当時は1000点満点で、私の成績は自己採点の結果762点でした。
当時の神戸大学法学部のボーダーは、820点と言われていたのですが、
私は敢えてチャレンジすることに決めたのです。

関西大学の法学部・経済学部・商学部と、関西学院大学の法学部・経済学部・商学部と…
6学部の合格通知を、二次試験申し込み前に既に手に入れていて、
もうこれ以上浪人することが無くなったということが理由の一つではありましたが、
何よりも、
苦手意識を持っていた数学が共通一次試験で満点を取れたことが力になってくれました。

しかも、当時の神戸大学法学部では、
一次試験の数学の配点が、2倍カウントされ、
それを二次試験の成績に加えた総合点で、合否を判定してくれるという制度だったので、
それが追い風となって、勢いがついていました。

さらに、二次試験でも数学が満点だったというおまけがついて…

神戸大学法学部に合格した当時の思い出

2浪して、崖っぷちに立たされたような思いで予備校2年目を過ごしてきて…
もうやることは全部やった…という思いで、
神戸大学法学部の合格発表を見に行きました。

ただ、午前10時の発表開始直後は…避けました。
テレビや新聞などで、複雑な顔をしている自分の顔を撮られてしまうのがイヤで…
正午を回った頃を見計らって、コッソリ見に行ったのです。

六甲台の正門を入って、合格者の受験番号が記載されている掲示板に近づくにつれ、
心臓の鼓動が大きくなっていくのを感じながらも、
「やるべきことはすべてやったんだ」と自分に言い聞かせ、
「ここがダメでも、もう浪人することはないんだ」と自分を慰めながら…

ドキドキしながら、人のまばらになった掲示板の前に近づいて…
見つけたのです…
自分の受験番号を…

その時、真っ先に思いついたことは、「両親に知らせること」でした。
ですが…
その時になって、初めて気がついたのです…
10円玉を1枚も持っていなかったことに…

当時は携帯もなければ、テレホンカードもない時代。公衆電話と言えば、
10円玉専用が主流で、中に100円玉も使える電話も出始めた頃でした。

「親に電話をかける10円玉がない…とにかく一刻も早く連絡したい…」

思わず、正門横の守衛室にいたおじさんに声をかけて、両替をお願いして… 
あっけなく断られて…しばらくして、少し冷静になって…
100円玉が1枚だけ残っていたのを見つけ、それで電話をかけました…
(お釣りが出ないことが心の中で引っかかっていましたが、やむを得ず…)

そうして、母が電話に出るなり、いきなり叫んでいました。
「やったよ~!合格や~!神戸大学に合格したでぇ~!」

この時の「思い」は、私にとって、終生忘れられない「財産」となりました。
今でも強烈な思い出として鮮明に覚えています。

下宿屋「山水館」への入居

神戸大学への入学手続きを済ませた後、次にしたのは下宿屋の入居契約でした。
奈良の吉野の山奥からは、3時間強もバスと電車を乗り継いでくることになるので、とても通えないと思いましたので…
早々に、大学から紹介された下宿屋「山水館」に決めたのです。

朝食と夕食の2食付で、7畳一間の部屋の家賃が月43,000円。
4階建ての建物の2階部分で、かろうじて神戸港が見える部屋…
それでも、毎日海を見ながら暮らせるなんて、山奥育ちの私には夢のようでした…

下宿代は親からの仕送りで支払ってもらいましたので、
自分の小遣いが無くなってしまった時でも、
昼食さえ我慢すれば、夕食には腹いっぱい食べることができたので有難かったです。

その下宿屋には、社会人の人から、高校生の女の子まで、
幅広い層の人たちが暮らしていました。
部屋数は全部で80室はあったと思います。
お風呂と洗面所は共同で、
知り合いもでき、そこそこ楽しい思い出もできました。

そういえば、食事を作ってくださっていたおばさん2人を招待して、
吉野の桜の花見に出かけたりしたこともあったっけ…。

そうそう…高校生の女の子にも「淡い恋心」を抱いたこともありました。
パソコンが無かった当時、西洋占星術の星の位置を手計算で求めて、
1年365日の毎日の運勢を手書きで作成して、その子の誕生日にプレゼントしました。
今のような、パソコンがなかったから、何日も徹夜して作ったことを覚えています。
あの子は今頃どこで何をして暮らしていることでしょうね。
本当に、懐かしい青春時代の思い出です。

馬術部への入部

折角あこがれの神戸大学に入れたんだから、
何かいい思い出になるような変わった部活動はないものか…
と考え、最初に入部したのが馬術部でした。

馬にカッコ良く乗って、颯爽と駆け抜ける姿は、
かつて西部劇や時代劇でよく目にしたものでしたが、
実際に乗るのは初めてでした。

入部早々は、厩舎の掃除や馬のエサ代稼ぎのアルバイト…
そして厩舎に泊まり込みでの馬の世話…
これがれっきとした部活動だったのです。

泊まり込みと言っても、下宿まで歩いて5分で帰れる距離でしたので、
寝るのはいつも下宿に帰ってからでしたが…

3か月くらい経った頃、場所ははっきり覚えていないのですが、
どこかの馬術センターに泊まり込みの合宿に行って、
初めて本格的に馬に乗せてもらえたのですが…

馬にもそれぞれ個性や性格があることを、この時初めて知ることになったのです。
馬というのは、手綱さばきと踵で動き方の指示を出すのですが、
当時の私は、自信無さそうに、弱弱しく手綱を引っ張ったりしていたものでしたから…

ある馬はじっと立ち止まったまま一向に動こうとはしませんでしたし、
ある馬は、二本足で立ってヒヒヒ~ンと雄叫びを上げるや、
首を前にひねったのです…

私のわけのわからない手綱さばきに、きっとイライラして爆発したのでしょうけど…
この馬の動作でどういうことが起きたかといいますと、
手綱を持ったままの私は、空中に舞い、大きく円弧を描くようにして、
馬の前に背中からドスンと落ちたのです…

馬場は軟らかい砂状になっていた上、
馬に踏みつけられなかったため大事には至りませんでしたが…
馬にバカにされたという精神的ショックから立ち直ることができませんでした…(苦笑)

それで、私は、早々に退部届を出し、
部活動は並行して入部していた「法律相談部」1本に絞り込んでいきました。

根性無しと思われるかもしれませんが、
2浪して、年齢的に後がなかった私にとっては、
馬といつまでも戯れている時間的な余裕は無かったのです。

法律相談部という部活動

法律を学ぶ人間にとって、大学で学んだ知識を社会で実際に役立てることができる…
そこには計り知れない魅力がありました。

部活動の中心は「無料法律相談」。
毎週土曜日の午後2時から4時までの2時間、
高速神戸駅近くにある神戸市立福祉会館の部屋をお借りして、
一般市民の方の法律上の悩みの相談に乗る活動でした。

強烈な印象に残っている相談は、18歳の女性の離婚相談でした。
(詳しくは、プロフィールの「法律相談部の部長時代の思い出 」ご参照)

そういうことがあってから、
世の中には法律では解決できない問題があることを痛感し、
次第に占いの世界にあこがれるようになっていったのです。

部長としての悩み

法律相談部という部は、法学部の学生だけの閉鎖的な部でしたが、
部員は常時30人以上は在籍していたと思います。
毎週土曜日の無料法律相談という部活動にも、多い時では十数名参加していました。
OBの人もちょくちょく参加してくださり、
部活動が終わった後は、必ずお茶を御馳走してくださいました。

そんな中、活動方針等で、部員との意見の食い違いがあり、
その時は、そういう意見もあることを素直に認められず、
一人悶々と悩んだ時期がありました。

今となっては、良い思い出の一コマです。

神戸ポートピア博覧会でのアルバイト

大学生活4年間に経験したアルバイトには、
有料道路の料金所、引越し業と
そして神戸ポートピア博覧会会場でのアルバイトがありました。

1981年3月20日から9月15日までの半年間、
神戸港に造られた人工島「ポートアイランド」を会場とした博覧会で、
私は、会場の東西を結ぶミニSL銀河鉄道の車掌を務めたのです。

「銀河鉄道999」の車掌とは、かなりイメージは違っていましたが、
それでも「銀河鉄道」の乗組員らしいユニホームを着て…
颯爽と… 大勢のお客さんを誘導して、扉を閉めたり、笛を吹いたり…
世の中にこんな楽しい仕事があるのか…と思ったものでした。

何よりうれしかったのは、
会場に自由に出入りできる「社員証」を持たせてもらったこと…
当然のことながら、それを見せれば無料で会場に入れたので、
アルバイト料以上のお得感がありました(笑)

非番の日に、それを見せて会場に入り、観たいパビリオンの前に並ぶ…
それは何にも替え難い楽しみとなりました。
今でいうフリーパスのようなものです。

当時は、ダイエー館が一番人気で、国内初のオムニマックス・シアターを一目見ようと、
ピーク時には6時間待ちの行列ができるほどでした。
今でも不思議に思うのですが…
「6時間待ち」で並んだら、他のパビリオンがほとんど見れずに一日が終わってしまう…
それでも待つか待たないか…
これはもう究極の選択ということになろうかと…

そんなダイエー館の前に…
「社員証」で、開場前に入って並んだものですから、
一部のお客さんから「不公平や!」と一時騒がれたこともありましたが…

それも今となっては、とても懐かしい思い出です。

就職活動での悩み

当時は、大学4回生の10月から「就職活動」が始まることに、
「表向き」はなっていたのですが、
実際には、4月から、OBの先輩を訪ねて回る活動を始めていました。

どういうわけか、そのとき、おかしな妄想に取り憑かれていて…
タロットカードがすべての未来を予言して、
そのカードに暗示された通りに世界は動いていく…と信じ込んでしまいました。
そのおかげで、毎晩のように夢でうなされてしまい…
どんなに頑張って努力しても、タロットの暗示を打ち消すことはできないと考えて…
まるで「金縛り」に遭ったように、心の中が縛られていったのです。

この時の私は、何もかも悲観的に考える傾向に陥っていました。
これって、今でいう「就活うつ」?だったのかもしれません。

その状態は2~3ヵ月は続いたように思いますが、
当時の三和銀行に内定をもらったのを機に、症状が一気に収まったように思います。

小学校時代の夢を実現させた「銀行員」

そして、1983年、昭和58年4月に、三和銀行に入行しました。

その時は無我夢中だったので、わからなかったのですが、
実は「銀行員」というのは、小学校6年生時代の夢だったのです。

「銀行員」になってから、ずいぶん経った頃、
実家に帰省した時に、たまたま小学校時代の卒業文集を見つけて…

その卒業文集には、「将来の夢」と題した私の作文が載っていました。
「将来は『銀行員』になりたい」と…

その時、初めて銀行員が小学校時代の夢であったことに気がついた…
というか、思い出したというわけです。


ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」の通り、
人は自分が考えた通りの人間になると、私も信じています。

ですが、この場合、意識の上にはなかったのです…
つまり「思考はしていなかった」ということです。

正確に言えば「かつては思考していたが、忘れていた」のです。


それが「現実化」した…

意識の上では忘れていても、どこか別のところで、何かが、
自分の代わりに、ずっと思考し続けてきてくれた…
としか考えられません。

不思議な感覚に捉われたことを覚えています。

夢と現実のギャップに悩んだ時期

小学校時代の「銀行員」の印象は、私にはとにかくカッコ良く見えたものでしたが、
実際にはかなり違っていました。

ただ、そんなことを同僚と話すこともままならず、
「出世競争」の中に巻き込まれていきました。

銀行の集合研修というものは、やたらと競争心を煽るようなもので、
知らず知らずのうちに、自分の気持ちには関係なく、仕事にのめり込んでいくようになりました…

銀行というところは、
「雨降りには傘を貸さず、晴れた日にだけ傘を貸す」商売だと揶揄されるくらい…
本当にお金に困っている人には何の力にもなってあげられないシビアな世界でした。
「慈善事業をしているのではない。ビジネスをしているのだ。甘っちょろいことは考えるな!」と、
上司からいつも叱咤激励されていくうちに、
流されるような生き方をしている自分に気づくようになりました。

そんな中でも長い期間を耐え抜いてこれたのは、
ただただ、家族を養うためであり、
銀行で積み上げた「経験」が将来きっと役に立つという思いがあったからです…

「キャバレー」にハマった時期

銀行に入行して3年目くらいだったと思うのですが、
当時「近鉄」に勤めていた弟に連れられて、生まれて初めてキャバレーに行きました。

大阪・難波の宗右衛門町入口にあった「うるわし」というお店です。
今はもう無くなっていますが、
サウナで有名なニュー・ジャパン観光が経営する「明朗会計」のお店でした。
夕方6時に開店して、まず40分で950円の料金。
そこに指名料が一人あたり1,250円で、二人まで指名できるというシステムでした。
早い話、指名さえしなければ40分間950円で飲めるということです。
その次から、7時台で2,000円、8時台で3,000円くらいに
料金が上がっていくシステムだったと思います。

時間が来れば、延長したくても、一旦は会計を済ませて出口まで出て…
それからまた中に戻って飲み直して…指名料は、そこからまた別料金で…
一度開店時刻の6時から閉店時刻の11時までずっと飲んでいて、3万円かかったことを覚えていますが…
それはそれで楽しい思い出になりました…

いろんな女性といろんな話ができて、いろんな人生の話が聞けて…
いい社会勉強になりました…

…が、
そんなお金の使い方をしていて、小遣いが無くならないはずがなく…
JCBのキャッシングによる「自転車操業」が始まりました…

キャバレーの支払いはすべてJCBカードで支払っていたので、
毎月10日のJCBの決済日にはいつも資金がショートして、
そのたびにJCBのキャッシングをしては、その場しのぎを繰り返していました。

手元にお金が無くても、飲んで食べて楽しい時間が過ごせる…
これはひとえにクレジットカードという存在の賜物でしたが…
ある日、頭を打つ時がやってきました。

ボーナス払いを想定してカードを使っていたのですが、
その時のボーナス支給日がJCBの決済日の1週間くらい先になってしまった時がありました。そんな時に限ってキャッシング枠も一杯になっていて…
追加融資を受けることもできなくなってしまいました。

仕方なくJCBの決済資金を、ボーナスが支給されるまでのわずかな期間
同僚の女性に借りたのですが、
それが上司の目に止まり、こっぴどく叱られたのです。
以来クレジットカードの使い方には気をつけるようになりました。

上司のいじめに耐えた時期

結婚することを翌年に控えていた7月に、転勤となり、
転勤した支店の支店長との間で確執がありました。

今でこそ、殴る蹴るといった行為をすれば、
パワハラの最も悪質なランクに位置づけられると思いますが、
今から30数年も前の時代だと、
「部下に対する指導や叱咤激励」の美名の下、
「正しい行い」として罷り通っていました…

そんなことを、ものの数週間続けられただけで、私は精神に異状をきたしました…
…といっても、今のような心療内科は無く、
一般の内科医に診てもらっていたので、いつも診断結果は「異状無し」でしたが…

まず不眠症の症状が出て…朝起きた時の気分は最悪で…
出勤途中、会社が近づくにつれ、動悸や息切れ、
目の周りに星が飛ぶような症状が現われ…

仕事中は仕事中で、業務用のカバンを電話ボックスに置き忘れてきたり…
原付バイクで追突事故を起こしそうになったり…
今振り返ると、よくぞ生きてたなと感心します…

1年で、その支店を転勤させてもらえたのが良かったのか…
その上司の顔を見なくなった途端に症状は消えましたが…

とんでもなく辛い経験でした…

人生の転機となった長男誕生

上司のいじめによる、不眠症や動悸・息切れの類は、
その上司の顔を見なくなったことで消えていきましたが、
仕事に対する前向きな気持ちは、依然として萎えたままでした。

それが、転勤先に配属され着任した「当日」に、我が家の長男が誕生したことで一変しました。

結婚して1年。新婚旅行での新婚初夜から数えて、9か月と数日後になる、
1992年8月7日…
その日は、仕事を早々に切り上げて自宅に飛んで帰り、
まずお風呂に入って体を清めてから、女房の入院先の病院に向かいました。
午後から陣痛が始まっていましたが、初産の場合は結構時間がかかると聞いていましたので、
まだ生まれていないだろうと考えていたのですが、
病院に着いた時にはもう生まれていました。

部屋に入るなり、見慣れない赤ちゃんと目が合いました。
これが、私の子…
ただただ、不思議なモノを見るような目でじっと黙ったまま、顔を覗きこんでいました。
長男の方も、私を小さな瞳でしっかり見つめ返していました。

「自分の分身がこの世に生まれてきた。」
それは何とも言葉に言い表せない感動でした。

「これからは、この子を育てる義務ができた。
今までのような甘い考え方ではいけないぞ」と、
自分にカツを入れて、もう一度自分の人生を生き直すような思いを持ちました。

大阪国際会議場建設推進協議会建設プロジェクトへの参画

長男が生まれた日に配属されたのは、
大阪国際会議場建設推進協議会という任意団体でした。
大阪府が主体となって、大阪市・関西経済連合会・大阪商工会議所が力を合わせ、
大阪・中之島に3,000人収容の大会議場を建設し、
サミットを大阪に誘致しようという一大プロジェクトでした。
そんなプロジェクトに、関西三大都市銀行も力を貸そうと、
三和銀行代表として参画したのです。

今までの銀行業務とは全く違う仕事でした。
会議場が担うべき機能を徹底的に分析して、構想を練っていきました。

そうして建設されたのが、中之島5丁目のリーガロイヤルホテル西隣りにある「グランキューブ大阪」です。

債権回収という仕事

バブル崩壊後、住宅金融専門会社(旧住専)の債権回収を目的として
設立された住宅金融債権管理機構と、整理回収銀行が、
1999年4月1日に合併してできた整理回収機構(RCC)に、
2年間出向していた時期がありました。

2001年4月から2003年4月まで、
その間、銀行の中では決して経験できなかった債権回収の現場…
その生々しい「現実」の世界を見てきました…

借金が返せなくなったらどうなるのか?
多くの人はそんなことを考えようともせず、高額の住宅ローンを組んでいますが…
バブルが崩壊してからというもの、
住宅ローンの担保に入れた自宅を売却しても、
借金は残るのが当たり前になっているのです。
その残った借金は、それから先も払い続けていかなければいけない…ということは、ご存じでしたか?
今のローンの契約ではそうなっているのです。

実際にローンが払えなくなった人というのは、大抵の場合、
勤めていた会社が倒産したとか、リストラに遭ったとか…
要は、収入が無くなったというのが主な原因です。

そんな人が自宅まで処分しても残った借金を、どうやって返していけるというのでしょうか…

法律では、そういう人たちのために「自己破産」という制度を設けています。
「借金を返さなくてもいい。だからもう一度一からやり直しなさい。」
というような救済制度なのです。

ですが、世の中には、そういう制度の存在すら知らない人や、
制度を知ってて悪用する人など、いろいろいるのが現実です。

整理回収機構では、その制度を悪用する人たちを相手にしています。
金額も半端な額ではありません。数億円から数千億円規模にまで及びます。
どこからこんな借金が生まれてきたのでしょうか…
借りる方も借りる方ですが、貸す方も貸す方だと思います。
バブルの時代は、みんなが狂っていたのかもしれません…

話は尽きませんが、
もしご興味がおありでしたら、直接お会いした時に続きをお話させていただきたいと思います。

おわり

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